お葬式でもパワーポイントを流せばいい

 祖父が他界しました。93才でした。最後に会ったのは10年も前で、棺の中で眠る祖父はわたしの知っている姿よりもずいぶんと痩せて、小さくなっていました。

 お坊さんがお経を上げはじめました。祖父との思い出が心に浮かんできます。立派なお雛様を贈ってくれたこと、お正月は親戚たちで祖父の家に集まったこと。わたしが思い出す祖父はみな「おじいちゃん」としての姿です。ふと、祖父がわたしの「おじいちゃん」になる前はどんな人生を生きてきたのだろう、と思いました。どんな子供時代を過ごして、どんな暮らしをしていたのだろう。どんな青年で、どんな風に祖母と出会ったのだろう。仕事の悩みとか熱中した趣味とかあったのかな。わたしよりもずっと前に生まれ、わたしの知らない時代を生き、わたしの父を生んだその人のことを直接知る機会を失ってしまったのだと思うと、何とも淋しく悔しい気持ちになりました。わたしは祖父とあまり話をしたことがありませんでした。

 読経は続きます。あちこちからすすり泣きが聞こえてきます。みんな悲しいのです。わたしも泣きました。祖父の人生に想いを馳せ湧き上がってくる感情と向き合っている内に、もしも自分が送られる側だったら、ということを考えるようになりました。わたしのお葬式ではみんなに笑顔でいてほしいと思いました。わたしの人生に起きた面白いことや楽しいこと、愉快で素敵なたくさんの出来事を知ってもらいたいと感じました。祭壇の両端にはモニターがあり、画面には葬儀の様子が映し出されています。そのときわたしは気づきました。「お葬式でもパワーポイントを流せばいいのだ」と。

 結婚式では新郎新婦の馴れ初めVTRを流すというのが定番になっています。お互いどんな子供時代を過ごして、どんな風に出会ったのか。どんなデートを重ねて結婚に至ったのか。二人のことがよくわかるし見ているだけで幸せな気分になれます(わたしもこのVTRが流れる時間が大好きです)。この出し物の特筆すべき点は、写真・映像・音楽・雰囲気の相乗効果で「ドラマチックな物語」を演出できるところだと気づきました。なぜなら使い方次第では、ふたりの間に起こった痴情のもつれ等々当事者にとって都合の悪い部分は排除して「素敵な出会いと恋愛を経て結ばれた愛すべきカップル」というポジティブな印象を見る者に与えることができるのですから。

 本人亡き今、故人がどんな人だったかは遺された者たちによって語られます。幸いにも祖父には兄弟姉妹が沢山おり、わたしには沢山の親族がいます。思い出話は尽きません。「そういえばあの時は」「こんなこともあったよね」、悲しみの中にも笑いが起こり、和やかな空気が流れます。旅立った祖父もどこからかわたしたちの様子を眺め「そんなことは言わなくていい」「違う違う、そうじゃない」と茶々を入れたりしていたかもしれません。騙されて借金をつかまされたとか、大学時代に留年したとか、早く忘れてほしいことほど他人は何かと覚えていたりするものです。生前にパワーポイントを準備しておけば、こういう事態は防げます。他人の思い出は変えられませんが、全体的な印象を底上げすることはできます。頼るべきは写真・映像・音楽・雰囲気の相乗効果。つまるところお葬式におけるパワーポイントとは、故人による「戦略的情報マネジメント(悪く言うと印象操作)」と言うことができます。

 そんなことを思いついて未来のお葬式は楽しくなりそうだとほくそ笑んだりしていたのですが、現実に目を向けるのを忘れていました。わたし、独身、ひとりっ子。このまま行くとそもそもお葬式に来てくれる人がいないのでは!?ショック。フェスではしゃぐ写真をパワポに収めて、孫たちに「え、おばあちゃん夏フェス好きだったの?まじぱねえ」って言われたかったのに。ここぞというところで涙を誘うくだりを作って天国からしめしめしたかったのに。いやいや、どうしたものか。わたしもそう遠くない将来、自分の家族を持てるかしら。持てたらいいな。おじいちゃんがいなければわたしは生まれていないし、そのおじいちゃんにもおじいちゃんがいる。血のつながりとそれによって広がっていく世界を目にすると改めて、家族って、親戚って、人間って、すごいなあと思うのです。

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先月の中ごろに村上春樹スプートニクの恋人』を読んでからというもの、「あちらの世界」と「こちらの世界」について考えたりすることが多かった。ひょっとすると今回の件の心の準備だったのかな。

 

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スプートニクの恋人 (講談社文庫)

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