はじめての春樹

ブログを書こう書こうと思っているうちに2月が終わってしまいました。

好きな音楽とか、はまっている映画のこととか、書きたいことの種はあるのだが如何せん筆が進まない。溢れてくる情熱に対してわたしの技術が追いついていないからなのかしら。なんというか、こう、書きたいことの魅力を簡潔に、わかりやすく、こなれた表現に落とし込みたいと思えば思うほど気持ちだけが空回りして、時間だけが過ぎていくのですよ。

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物心ついてから生まれて初めて、村上春樹氏の著作を読み切りました。『スプートニクの恋人』です。日本中に幾多のファンを抱え、海を越えその名を世界に轟かし、ノーベル賞にまつわるお決まりの流れがもはや定番になりつつあるあの村上春樹氏です。

わたしは彼の本が読めなかった。大学の授業で『ノルウェイの森』を知り、興味本位でページをめくってみたけれど、飛び交う片仮名とどこか達観したような語り口に虫唾が走った。内容がまったく頭に入ってこない。生理的に無理、受け付けない。瞬時にそう判断して、その後数年彼の本を手に取ることはありませんでした。

しかしながら、我が国の出版界は否応なしに彼にスポットライトを当てます。『1Q84』(最初読めなかった)。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(タイトルだけで鳥肌もの)。そして昨年出版された『騎士団長殺し』(普通のタイトルに安堵)。新刊が出るたびに湧き上がる春樹熱。彼のどこがそんなにすごいのか。その議論のほんの端っこだけでも味わってみたい。みなが褒める春樹というものをわたしも読んでみたい。そういう思いは長年わたしの中でもやもやと存在していたのだと思います。

そしてついに!齢三十にして初めて!村上春樹を読んだ。読み切った。読んでやった!「わたしにも春樹が読めたぞ、ほらみたことか」という謎の満足感に満たされている今。きっかけはとある本屋さんですすめてもらったというだけのことなのだけど。曲がりなりにも一冊は読んだから、自信をもって言える。わたしはやっぱり彼の文章が苦手です。

読みだしてからしばらくは大変でした。『ノルウェイの森』とときと同じ現象です。情景も浮かばなければ感情移入もできない片仮名だらけの比喩に、「なんじゃそりゃ」「意味わからん」とひたすらつっこみを入れながらページをめくる。1ページにつき1つっこみ。こんなにつっこみを入れながら本を読むという経験は生まれて初めてです。そして僕とすみれの会話。まったく頭に入ってこない。ついには「なだぎ武演じるディラン・マッケイと友近演じるキャサリンの声で二人の会話を再生する」という術を身につけることで、独特な言い回しへの違和感を克服するという術を覚えました。読み切れたのは、登場人物である僕、すみれ、ミュウの三人それぞれにわたしが共感できる生い立ちや経験が一つずつあったこと。後半の出来事をきっかけに会話のシーンがぐっと減り、すみれの手記と僕のモノローグが大半を占めるようになったこと。この二つがあったからだと思います。

彼の文章を通じて彼の世界観を垣間見て、そこに魅了される人々がいる意味もわかりました。音楽や文学やそれにまつわるなんやかんやが大好きで、それらをふんだんに彼の物語に登場させたくなる気持ちもよくわかりました。彼なりの美学があるのだなと思いました。でも、わたしにとって彼の文章は、よく言えば冷静で、悪く言えば冷酷なものに感じられました。春樹氏は登場人物よりも一段高いところにいて、常にその高みから物語を見下ろしながら「僕」や「すみれ」に彼の言いたいことを言わせているのです。小説というのは得てしてそういうものなのかも知れないけれど。神様の目線から綴られた高度に洗練されているものよりも、地べたを這いつくばって泥臭さ溢れ出てるもののほうが好きなのだろうな、わたしは。

あー、決してポジティブな感想ではないのに表明したくなってしまうところも彼の作品の魅力の一部なのかもしれないですね。なんか悔しい。